Huippuvuoreteen 4

除幕式

スヴァールバルへの旅 4

2006年6月10日土曜日

既にイベントは開始 今日は忙しい日です。Spitsbergen Marathon開闢百周年記念式典が同時に行われます。開闢百周年記念式典の本日最初のイベントは午前8時国旗掲揚。沢山の建物の前に高々とノルウェー国旗が翻ります。その前をマラソン出場者が黙々とウォーミングアップのジョギングで駆け抜けていきます。マラソンのスタートは午前10時。

スピッツベルゲンは凍らない さて、Svalbard諸島Spitsbergen島を発見したのは、オランダ人。1596年にWillem Barentsがこの島にたどり着いたという記録があります。このとき彼は、既に制海権を失った南回りではなく、北回りでのアジア航路を探すべく北へ向かい、流氷をよけながら進んでいくとこの島に辿り着いたのだそうです。博物館の展示にあった衛星写真を見るとよく分かりますが、北大西洋海流がSvalbard諸島に流れ込んでここは全く凍っていません。右下に見えるフィンランド湾がすっかり凍り付いているのと比べると一目瞭然。氷をよけながら北を目指すと、必然的にこの島にたどり着くというわけです。その時にオランダ人が付けた名前が「尖った山」Spitsbergen。1920年のSvalbard条約によってノルウェー領になった際に「冷たい岸辺」Svalbardと名付けられるまでその名が使われていたようです。

17世紀にはイギリスとオランダが島を半分に分け合って捕鯨基地とし、19世紀には毛皮の捕獲地として人々が入り込んでいたものの、長らく捕鯨基地や毛皮の捕獲地点としての役割しか持たなかったこの島が一躍脚光を浴びるのは、20世紀に入ってから。石炭が取れることが分かってからです。Longyearbyenがいかにして開かれたのか、ここからは、インフォのお姉さんにもらった手作りの資料からの直訳です。

1901年、米国人 John Munro Longyear は、妻 Mary と五人の子供を伴って、 Sbvalbard への航海に臨む。ロングイヤーはミシガンで商人として成功を収め、鉱業、鉄道業、林業、材木商、不動産業、銀行業を営んでいた。彼は旅を好み、知性に富んでおり、政治や歴史について明るかった。このロングイヤーのスヴァールバルへの航海が、Longyearbyenの開闢へと繋がっていく。

1903年の夏、ロングイヤーは再びスヴァールバルを訪れ、Adventフィヨルドに立ちより、そこで石炭を拾ってこれを持ち帰る。これらのサンプルから良い石炭が取れることが期待されたことから、ロングイヤーは "Ayer and Longyear" 社を設立し、自らが石炭の発見者であると主張していたノルウェーの採掘業者との交渉を開始する。1904年にノルウェーの会社を買収することで合意した同社は、1905年夏に採掘に成功し、1906年2月 "The Arctic Coal Company" を設立する。

1906年6月10日、"Primo"はアドベントフィヨルドに到着する。船上には50人の男達と採鉱のための道具、そして後にLongyearbyenと呼ばれる通年住める家を造るための道具が積まれていた。

夏の間に10件の家が建築され、水道が確保された。労働者達は、石炭を炭坑から積出港まで運ぶためのロープウェイを設置。その年の終わりには、65mのトンネルを掘ったところで1〜3mの石炭層を見つけ、採掘を開始する。10月にはほぼ全ての労働者が本国へと戻ったが、 Bert Mangham を初めとする22人の男達は島に残り、出来たばかりの居住区で一冬を過ごすことになる。これが、この後100年間続くロングイェールビーエンの冬の始まりである。この後、アドベントフィヨルドのこの居住区の冬越えが行われなかったのは、第二次大戦中だけである。

ロングイェールビーエンの百周年としていくつかの年が考えられる。1901年、1903年、1904年、1905年、1906年のいずれかを開闢として見ることが出来るからだ。しかし、1906年を真の「居住区設立」の年とすることにした。この年初めて人類がこの地で夏だけでなく一年間を過ごした年だからである。また、1906年は初めてこの居住区が "Longyear city"と命名(後にLongyearbyenと改名)された年でもあるのだ。

"byen"はノルウェー語で"City"。ノルウェー語に置き換えられはしたものの、ロングイヤーの功績は現在まで讃えられているわけです。

遠くから 帆船で 米国人がやってくる
朝9時45分から旧港に集まってきた街の人たちの目の前に、1901年当時と同じ大きさ(とインフォのお姉さんに聞いたのですが、ちょっと小さすぎる気もしますが)の帆船が沖から John Munro Longyear の孫娘 Janet Longyear を乗せてゆっくりとやってきました。いよいよ百年祭の始まりです。

いよいよ始まり 午前10時10分、炭坑夫の格好をした音楽隊の演奏(QTムービー548Kbyte)に乗って、帆船が入港。続いて、バイオリン演奏に続いての百年祭の宣言(QTムービー1.9Mbyte)と続いて祭りは最高潮。上陸した一行は、Longyearbyenの歴史的な場所を順番に周りながら街が設立された丘の上へと向かっていきます。

ロープウェイ ロングイヤーがこの炭坑を保有していたのは、1915年まで。1916年11月には大ノルウェースピッツベルゲン石炭株式会社(SNSK)へとこの街が手渡されます。1925年にスピッツベルゲン条約の成立によって、ロングイェールビーエンが会社からノルウェーへと管理が移された後も、しばらくこの街は企業城下町としての発展を続けます。その時代はこのロープウェイを使ってせっせと石炭が運び出されていたことでしょう。

最初の頃の建物跡 ちなみに今市街地が有るのは、最初の居住区とは谷底を挟んで反対側。元の居住区にはこんな風に建物の跡だけが残っています。1941年4月にノルウェーもご多分に漏れずドイツに占領されているのですが、この町も例外ではなく、1943年と1944年、ドイツ軍の艦砲射撃によって燃え尽きています。この杭の先端が黒く焦げているのはそのころの名残なのだそうです。こんな北の端まできちんと灰燼に帰してしまうなんて、流石ドイツ人やることが完璧。

電波塔 さて、炭坑町として栄えたこの町も、1970年代に入ってのエネルギー革命のあおりを受けて窮地に立たされます。SNSKはほぼ破産状態となり、1976年までに完全にノルウェー国家によって買い取られます。時は冷戦まっただ中。1926年にスウェーデンからPyramidを買い取ったのを皮切りに、PyramidやBarentsburugでソ連が操業を続けている以上、NATOの前線基地ノルウェーも一歩も引くわけにはいきません。そこで1975年にはLongyearbyenの「一般都市化」を宣言。1976年に学校をSNSKからもらい受けて公教育を開始し、1981年には国立病院、役所、郵便局などに加えて、ノルウェー本国との衛星通信を確立。数年後にはテレビ放送まで開始してしまいます。恐るべき勢いです。

パソコンショップ ちなみに、この電波塔の下の建物は、今では世界最北のパソコンショップに成っています。残念ながらこの日は百年祭でお休みでしたが平日は8時から16時まで、土曜日は12時から18時まで開いているようです。

パソコンショップの張り紙 ホテルの廊下にこんな張り紙があったのに気づいて来てみたのですが、今日はお休みでちょっと残念でした。ま、こういう日ですから仕方がないでしょう。中を覗くとHPのパソコンの箱が山積みに置いてありましたが。

空港 ロングイェールビーエン空港が出来たのは1974年。国がこの街の「ノーマライゼーション」に乗り出す少し前です。この空港が出来たおかげで、この街は島の中心都市としての地位を不動のものとします。写真で見えている小型機は最北の街 Ny Ålesnd を、黄色のヘリコプターは今も唯一残るロシア人街 Barentsburg を結んでいます。ロシア本国からバレンツブルグに入るには、この空港を経る以外に方法がないんだそうです。

ちなみに、ロシア人居住区だった Grumant は1961年に、 Pyramid は1998年に放棄されており、今残る街は、この Longyearbyen の他はロシア人街 Barentsburg と世界最北の街 Ny Ålesnd だけ。ニーオールセンにはアムンゼンが1925年に北極に飛行船で行ったときに飛行船ノルゲ号を繋留した塔が残っていることで有名ですが、今は極北研究の基地の街になっています。昨日のナイトクルーズのツアーコンダクターの話では、昨年新たに中国のチームが基地を設置したとかで、これからご多分に漏れず、この島にも中国人が増えていくんだろうなぁと言う気がします。

それにしてもここに来て思い出すのは、その昔、私の祖母が「昔アムンゼンはんが来はった時に、小旗振ったん思い出すわぁ。」と宣ったのにびっくりしたことです。考えてみたら「アムンゼンはん」が日本に来たのは1927年(昭和2年)ですから、リアルタイムで祖母が見たのもさもありなんといった感じです。もちろん、祖母には絵葉書を一通送って置きました。残念ながら、アムンゼンゆかりのニーオールセンからではありませんが。

建ち並ぶ家 さて、ノーマライゼーションはされたものの、実際に女性や子供達が普通にこの街に住むようになったのは、環境が整った1985年以降とのこと。1990年代に入って、ロングイェールビーエンは北極観光の玄関口として、あるいは、極地研究の玄関口として整備されていきます。 The University Center in Svalbard (UNIS) が設立されたのが1993年ですから、このようなかわいらしい家が建ち並び、冬にはスノーモービルに乗った観光客が走り回る現在の姿にこの街がなったのが、いかに最近かが分かります。

最初の郵便局跡 そんなこんなで百周年。当然記念グッズも色々売り出されます。その目玉が、この「最初の郵便局跡」で売り出される記念切手。

記念切手にスタンプを押す ここで昔の制服を着た郵便局員が、記念切手にスタンプを押してくれています。私も列に並びましたが、なんと私の前の人(これが件のレンタカー屋の兄ちゃん)で売り切れ。ですが、現在の郵便局でも同じものが手にいるということで、後で郵便局まで行って購入しておきました。

記念切手 はい、これがその切手。お値打ち品です。他にもTシャツ、マグカップ、水筒、ピンバッチと考えられる物は一通り売られていました。それにしても、郵便局で並んでいるときにすれ違ったおばあちゃんがつけていた、開闢五十周年ピンバッチには驚きました。あのおばあちゃんはまさにこの街の歴史と共に、生きておられるわけですね。

記念タイピン もう一つの目玉が、限定50個のこの、石炭入り記念タイピン。全部にシリアルNOがついていて、私が手に入れたのは、10番。意外に売れていないような雰囲気ですが、まぁ、お宝お宝。

いよいよハイライト さて、このようにして発展を遂げてきた街の百年祭もいよいよハイライト。先ほどの「最初の居住区跡」に作られたメイン会場に音楽隊やコーラス隊が並び、ノルウェーとアメリカの国旗が翻ります。そして市長、大臣といったお偉方のスピーチが次々と行われています。大臣のお話は本当に長い。だんだんみんな疲れてきているのが分かります。

孤高のランナー ふと谷底の方を見ると、走っている人たちが。そうでした、今日は世界最北のマラソン、スピッツベルゲンマラソンでした。百年祭の方にすっかり気をとられていましたが、ランナー達は雄大な景色の中を一生懸命走っているのです。それにしても、単にジョギングをしているのか(QTムービー1Mbyte)と一瞬勘違いしてしまうぐらい、みんな無関心。世界中からやってきてマラソンしてるんですから、もうちょっと応援してあげればいいのに。

孫娘 とにもかくにも、今この街があるのも、このマラソンがあるのも、みんなこの人のおじいさんがこの島に街を築こうと思ったおかげ。 Janet Longyearさんのスピーチと除幕式(QTムービー1.9Mbyte)をもって、記念式典もいよいよクライマックスです。お話を聞いてみると、この街の始まりには一組の夫婦の悲しい思い出があったことが分かりました。百年前も今も人の営みは常に変わらないんだなぁとしみじみと感じます。

孤高のランナー 記念式典が終わって、写真撮影をしている様子を眺めながら、そんな感慨にふけっていたら、すぐ後ろを孤高のランナー達が駆け抜けていきました。